2011年12月30日金曜日

下の息子が帰省中


下の息子が京都から帰省中。

大学に入った後は家におきっぱなしだったヴァイオリンを持って帰るそうです。

5年ぶりくらいにヴァイオリンを引いて聴かせてくれました。

高校3年までの10年あまりは兄と一緒に毎週個人レッスンに通ってましたけど、練習嫌いで先生も最後はあきらめていましたが・・。

時々は聴かせてほしいね。

2011年11月6日日曜日

今年の休暇は温泉巡り




一昨年から毎年、秋にまとまった休みを取って夫婦で旅行に出かける事にしている。

今回も始めはドイツへいくつもりでチケットも用意していたけれど、職場の急な事情で中止。

やむなく国内に切り替えて期間も短縮して3泊4日の九州温泉巡りになった。

JRの「フルムーン」というチケットで5日間乗り放題&グリーン車もただという便利なもの。

初日は大分の湯布院で泊って、翌日はレンタカーで阿蘇へ行き夕方に熊本の黒川温泉に到着。

ここが一番よかったけれど、急な予約だったので連泊はできず残念。

次の日は山口の湯田温泉に行きました。学生の頃一人旅で泊った記憶があったけれど全く別ものになっていました。なにせ、40年近くも経つものね。でも、泉質はよくて満足。

帰りに広島で途中下車して「広島焼き」を食べてからかえって来ました。

それなりに気分転換にはなったけど、もう一つ吹っ切れなくて不眠が続いたので身体的には疲れたね。

遠くても休みにやっぱりはヨーロッパがいいな。

2011年10月12日水曜日

じわじわ広がる放射線物質


怖いですね。風に乗って飛んでいくからどこまで広がるのかわからない。

知らない間にいつの間にか放射線物質に汚染されている環境にいる事になる。

わかったところで、ここまで広がると個人的には対応のしようがないような・・。

こんな危険な「原子力発電所はもういらない」という事でしょうか。


<放射性物質>横浜でストロンチウム検出 80キロ圏外初



2011年10月12日 11時24分 (2011年10月12日 12時30分 更新)





 横浜市港北区のマンション屋上で、放射性物質のストロンチウムが検出されたことが、民間分析機関の調査で分かった。同市は調査結果を受けて再検査を始め、近く結果がまとまる見通し。東京電力福島第1原発の80キロ圏外でのストロンチウム検出は初めて。
 マンション屋上にたまった堆積(たいせき)物を住民が採取し、8月に「同位体研究所」(同市鶴見区)で測定したところ、ストロンチウム90(半減期約30年)を1キロ当たり195ベクレル検出。9月中旬、市に連絡があった。
 横浜市は福島第1原発から約250キロ。ストロンチウムはこれまで福島市など80キロ圏内では検出されていたが、文部科学省原子力災害対策支援本部は「横浜での検出は確認中だが、検出されれば80キロ圏外では初めて」と話している。
 市は当初、ストロンチウムの検査は予定していなかったが、研究所の調査結果を受け、区内3カ所で測定を進めている。
 ストロンチウム90は文科省の3月下旬〜5月上旬の土壌調査で、福島第1原発から29キロの福島県浪江町で250ベクレル、36キロの飯舘村で120ベクレル、62キロの福島市で7.7ベクレル検出されている。【山下俊輔、杉埜水脈】


 【ことば】ストロンチウム
 半減期が約50日のストロンチウム89と同約30年のストロンチウム90がある。カルシウムに似た性質があり、体内に入ると骨に取り込まれやすく、骨のがんや白血病の原因になる恐れがあるとされる。

2011年10月7日金曜日

ジョブズ氏死去


 
2011年10月6日 11時41分 (2011年10月6日 12時34分 更新)


スティーブ・ジョブズ会長の死去を伝える米アップル社のホームページ=2011年10月6日午前11時43分撮影

 【ワシントン平地修】「アップルは先見性がある独創的な天才を失い、世界は驚嘆すべき人物を失った」。5日夜、創業者のスティーブ・ジョブズ氏の死去を発表した米アップルは、ホームページにトレードマークの黒いタートルネック姿のジョブズ氏の写真を掲げ、「彼の精神は永遠にアップルの基礎となるだろう」と、IT業界のカリスマの死を悼んだ。  アップルは、ジョブズ氏の主導で開発され、同社の業績を大きく飛躍させたスマートフォン(多機能携帯電話)「iPhone(アイフォーン)」の新機種「4S」を4日に発表したばかり。発表の場にジョブズ氏が現れるのではないかとの期待も出ていただけに、突然の訃報は米国だけでなく、全世界を衝撃をもって駆け巡った。  ジョブズ氏は55年、大学院生だった未婚の母の下に生まれ、生後すぐに養子に出された。米リード大学を中退後、20歳の時に自宅のガレージでアップルを創業。コンピューター「マッキントッシュ」などを発売し、10年後にはシリコンバレーで従業員4000人、年商20億ドル(約1650億円)の新興企業に育て上げた。  30歳で共同経営者との路線対立からアップルを退社。その後、アニメーション会社ピクサー・アニメーション・スタジオを買収し、映画「トイ・ストーリー」などの製作を手がけた。97年にアップルの経営に復帰すると、米マイクロソフトとの提携や大規模なリストラなどで低迷していた業績を再建した。  すべての製品の経営判断にかかわり、98年には丸みを帯びたデザインと鮮やかなツートンカラーが話題を呼んだパソコン「iMac(アイマック)」を発売。01年発売の携帯音楽プレーヤー「iPod(アイポッド)」や07年発売のアイフォーンなど、斬新なデザインと新しい機能を兼ね備えたヒット商品を次々と発表し、経営手腕は「魔術師のよう」とも賛辞を浴びた。  ただ、自社商品へのこだわりの強さゆえに時に強引と評されることも。10年に発売した新型のアイフォーン4が、アンテナの設計上の欠陥から、米国で受信感度が落ちると指摘された際には、他社のスマートフォンでも同様の問題があり、アップル固有の問題ではないと強弁。会見で男性が「嫌なら買うな」と歌う動画を流す場面もあった。  ジョブズ氏は今年8月の退任後も、その病状やアップルの経営への関与度合いが大きな注目を集めてきた。同社の「顔」であることは変わらず、精神的支柱だっただけに、今後の経営にも少なからず影響を与えそうだ。
 ◇「ハングリーであり続けろ」

 「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ」。スティーブ・ジョブズ氏は05年の米スタンフォード大学卒業式で行われたスピーチの最後に「みんなにもそうあってほしい」とこう呼びかけて締めくくった。すでにがんと診断されて1年。米カリフォルニア州の情報技術(IT)先進地、シリコンバレーで次世代を担う若者たちに伝えたい最後のメッセージが、ハングリー精神だった。

 ジョブズ氏は演説の中で、がんと診断された後の死生観について「古きものは消し去られる」と心境を告白。「時間を無駄に過ごしてはいけない」「自分の心と直感に従う勇気が大切だ」と説いた。

 シリコンバレーで医療技術分野のコンサルタントをしている元スタンフォード大客員教授の金島秀人氏(58)は「ジョブズが訴えるハングリー精神は、決して金もうけや上昇志向ではなく、自分の感性を信じて挑戦する創造的な姿勢だ。それこそがシリコンバレー精神の本質だ」と語る。

 ジョブズ氏は1970年代半ばからサンフランシスコ近くの禅センターに通い、仏教を学んだ。講演ではよく禅の教えを引用し「他人の価値観に振り回されないよう、無駄をそぎ落とせ」と強調していた。ロサンゼルスの日米文化会館で芸術監督を務める小阪博一さんは約20年前、会議で立ち話をした際、ジョブズ氏が「(仏教を海外に紹介したドイツ人哲学者)ヘリゲルの本『弓と禅』を読んだ」と、いかに禅の影響を受けたか話していたのを思い出すという。

 ジョブズ氏は04年にがんと診断された後、3度にわたり休職と復帰を繰り返し闘病してきた。いつも入院先は明かさず、8月にCEO退任を役員に伝えた後はメディアを含む外部と連絡を絶っていた。【ロサンゼルス堀山明子

2011年9月21日水曜日

道路掃除

朝4時半に起きて道路を見ると、案の定べっとりとヘドロ(?)が辺り一面に広がっていました。

土砂もあるだろうけど、大部分は我が家の排出物と思われたので懐中電灯で照らしながら水道水で道路を洗いました。雨が降っているからかえってやりやすいです。でも角地なので面積は半端でない。

格闘する事2時間余、途中で妻も合流して一応きれいになりました。

10年ごとにやってくる災難ですね。あと10年したらこんなことできるのかしら。

今朝は早朝出勤なので、あわててシャワーをして職場へ。

今はコーヒーを飲みながらこれを書いてます。

あ、腰が痛くなってきたかも・・。

2011年9月20日火曜日

15号台風で家の周囲が冠水

今夜9時過ぎに寝ていたら、10時頃に妻が「道路が水浸しで、車が浸かっとうよ!」と。

やっぱり来たかと外へ出てみると駐車場は水深10cmあまりになって道路と区別がつきません。

しかもどんどん水かさが増してきます。

あわてて2台とも高いところへ避難しました。

東の玄関口も道路が冠水。

昔、これで大事になったのでした。

このまえの12号のときはどうもなかったので油断してましたよ。

明日の後始末が思いやられます・・。


2011年9月19日月曜日

ひさびさの淡路島




昨日は当直明けでごろごろしてたけど、今日は気分転換に淡路島の温泉に行ってきた。

とはいっても、いつものお風呂に入って昼ご飯を食べて帰ってくるというお手軽コース。

お風呂は広い浴場を独占して一時間ほど入ってましたよ。

ただし昼食は今回は「ステーキ丼」。

まあ、ちょっとした気分転換にはなりましたね。

でも、このホテルの経営は大丈夫なのかなあ。


2011年9月5日月曜日

台風一過


台風12号はひどかったです。

たくさんの方が亡くなられて、天災の怖さを改めて思い知らされました。

地震、津波、洪水、土砂崩れ・・。いずれも人の力が及ばないことですね。

あえて教訓を汲み取るとするならば警戒レベルを普段より上げておいて、とにかく早めに安全なところに避難する事ですかね。

安全対策に国や自治体も、もう少し人とお金をかけてほしいです。

我が家の被害は庭木の一本が根元からポッキリと折れてしまったくらいでした。

蟻にやられて少し弱っていたみたいです。

昨夜は当直だったので幸いにも昼過ぎに家に帰って来ましたよ。

で、疲れてはいたけれど日差しも弱まって涼しい風が吹いてきたのでやれるところまでやろうと倒木の後始末を始めました。

途中で何度も休憩して格闘する事3時間余、電動ノコが活躍して無事7袋のゴミ袋に収まりました。でも、太い幹はゴミには出せないだろうかなあ。

2011年8月27日土曜日

アゲハチョウの羽化



朝、いつものようにワンコと散歩に行って帰ってきました。

ワンコの犬小屋の入り口にこれから羽化しようとするアゲハチョウがいましたよ。

ワンコはこうした事には興味がないので無視。ひたすらお食事。

そういえば入り口の上の方には蝉の抜け殻が2個ぶら下がっていますね。

で、アゲハチョウは無事に羽化して飛び立てそうです。


明日は娘のお引っ越し。

同じ市内ですが、自立への一歩かな・・。

2011年8月13日土曜日

早くも稲刈り


毎日暑いね。

お盆休みがなくなって通常勤務になって、もう7−8年になるんだろうか。

今日はたまたま土曜日で勤務でなかったので10時過ぎまで寝ていた。

というか、疲れて起きられなかったというべきかな。

みんなで遅い朝ご飯を食べて、「ワンコは?」と聞いたら「まだ」という返事。

かわいそうに、急いで散歩に行きました。ワンともいわず待っていてくれましたよ。

道ばたの田んぼの稲穂が垂れて・・と思っていたら、途中で稲刈りを始めたところに出くわしました。

早いなあ、もう稲刈り・・。

2011年8月8日月曜日

朝顔


毎朝、毎晩せっせと水やりをしていた裏庭の鉢植えの朝顔。

今朝、やっと花が咲いたのに気がついた。

この日照りでいつ枯れるかと心配してたけど、無事にきれいに咲きました。

今日は娘の誕生日。

彼女もいつかはこんなふうに・・ね。


2011年7月31日日曜日

家の前が更地になって




我が家は築20年になるが、引っ越してきた当時から東の玄関側には林が広がっていた。

見晴らしが悪いといえばそれまでだがプライバシーという点では落ち着けてよかった。

それがここ二週間くらいですっかり林が取り除かれて更地になった。

遠くまで見渡せるのだが、なんだか裸になったみたいで落ち着かない。

ここは県の施設が建っていたので県のものと思っていたが、国有地を県が借りていたそうでこのたび更地にして返還する事になったのだそうな。

更地になった後はどうなるのかは、工事の説明にきた業者さんも知らないとのことだった。

この施設は本体は移転していて敷地の中を県の道路が新しく通ったり、切り離された土地が業者に売りに出されたりしてきたからきっとどこかに売られるのだろう。

国もお金がないからね。

マンションや建て売り住宅なんかがわんさとたったらいやだなあ。


2011年7月24日日曜日

断酒で丸3年経過

丁度3年前の7月23日に最後の飲酒をしたので今日で丸3年飲んでないことになる。

最後に飲んだのは丁度、お腹の手術の前日だった。

しばらく飲めないからと思ってしこたま飲んで、多分二日酔い状態で手術を受けたと思う。

手術はうまくいったけど肝臓がかなり傷んでいると主治医に怒られて、それをきっかけに止めたんだった。

その後、不思議と「飲みたい」と思ったことはない。

最近は飲み会にはわざわざ行くことはないけれど、講演会後の懇親会などはよくあるのでいつもウーロン茶で済ましてしまう。

最近はお酒を飲まない人も増えてきたのであまり目立たなくなった気がする。

最近は暑いので家では泡の出る「炭酸水」を飲むのが好みです。

2011年7月18日月曜日

やったね「なでしこ」 女子ワールドカップ優勝!

先日から気になっていた女子サッカー決勝戦。

始めからはとても見る元気がないから、朝はやめに起きれたら見ようと思ってた。

5時過ぎに起きてみたらまさに延長戦の後半で1−2の劣勢から澤選手が同点のゴールを決める瞬間を見ることができました。すごいね!

PK戦も固くならずに見事に決めてくれました。

元気が出たなあ。



なでしこ世界一!PK戦制した

女子W杯決勝 日本―米国 (7月18日 フランクフルト)スポニチ

サッカーの女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会決勝は17日(日本時間18日)、フランクフルトで日本と米国が対戦し、日本が2-2からのPK戦を制して初優勝した。

 試合は立ち上がりから米国が圧倒。日本のパスミスを突くなどして、再三決定機をつくったが得点には至らず。

 日本は、なかなかリズムをつかめなかったが、20分すぎから徐々に落ち着きを取り戻し、30分には大野のスルーパスを左サイドで受けた安藤がシュートを放ったが、GKに阻まれ惜しくもゴールならず。米国も決定力を欠き、両チーム無得点のまま前半を終えた。

 後半も立ち上がりから米国が攻め込むが、日本も粘りのディフェンスを見せる。後半21分、日本は大野に代わって丸山、安藤に代わって永里を投入。

 米国は24分、自陣から前線へのパスを受けたモーガンが中央を突破し、左足でゴール右隅へ。ついに先制点を奪った。しかし、日本は36分、米国ゴール前のクリアボールを奪った宮間が中央から同点ゴール。その後も一進一退の攻防を展開したが、両チームとも無得点。90分で決着はつかなかった。

 米国は延長前半14分、モーガンのクロスをゴール手前で受けたワンバックが中央から頭で押し込み勝ち越しゴール。2-1とした。

 だが、日本は延長後半12分、左コーナーから沢が大会5得点目となるゴールを決め、再び追いついた。15分に岩清水が一発退場となる場面もあったが、日本はゴールを死守。2-2で延長後半を終了。決着はPK戦に持ち込まれた。

 PK戦ではGK海堀が好セーブを見せ、3-1で制した。

2011年6月6日月曜日

<東日本大震災>英ウェストミンスター寺院で追悼式

世界中の人々が心配して心を寄せてくれている震災後の日本。

いろいろな取り組みが報じられているけれど、これにはいたく感激してしまいました。



<東日本大震災>英ウェストミンスター寺院で追悼式

2011年6月6日 10時50分 (2011年6月6日 11時24分 更新):毎日JP


 【ロンドン笠原敏彦】ロンドンにある英王室ゆかりの教会ウェストミンスター寺院で5日夜、東日本大震災の追悼式が行われた。在英日本人を中心に王室関係者や各国外交官ら約1500人が出席し、震災の犠牲者らに祈りをささげた。

 礼拝を執り行った同寺院のジョン・ホール首席司祭は「犠牲者を追悼し、愛する人や家、生活の糧を失ったすべての人々のために祈りましょう」とあいさつ。林景一駐英大使が「むこの犠牲者」の碑に献花し、仏教とキリスト教の両方で祈りが行われた。また、被災地の状況説明や宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」が日本語で朗読されるなどした。

 同寺院の広報担当、ローラ・キンセイさんは「世界中の人々と同じように我々は大震災の悲劇に大きなショックを受けた。すべての犠牲者と被災者のために追悼式を行った」と説明した。同寺院は英国国教会の教会で、主要な王室行事が行われるほか、歴代の国王が埋葬されている。

 英王室からはエリザベス女王のいとこのグロスター公が出席した。

2011年6月5日日曜日

梅雨入り


毎日忙しくしていると季節の移り変わりがよくわからないことがしばしば。

宮城への医療支援も5月いっぱいでひとまず休止。

救援物資は今も医局の前のスペースに山積みだが、送る手段がない。

宮城の病院も支援物資を被災者に送るルートがないので困っているらしい。

おかしなことだよね、ものはいっぱいあるのに被災者に届かないなんてね。

こんな部分は国や行政がしっかりバックアップしてほしいものだ。

それにしても、国会のドタバタは見苦しい。平時ならいざ知らず、「国難」の真っ最中に何たることか。

それこそ「挙国一致」でしなきゃならないことがあるでしょうに!



2011年5月17日火曜日

宮城への医療支援・第7陣報告会


先週、宮城へ医療支援に行った職員からの報告会が昼休みにありました。

第7陣ということで被災後、約2ヶ月が経過していてずいぶんと求められる支援の中身が変わってきているということでした。

避難所の食事は、朝はパンで昼がカップ麺、夜は仕出し弁当が出るという程度でいまだに大きな問題を抱えているようです。炊き出しや足浴などの方が喜ばれる状況だったというのが支援に行った医師の感想です。

行けばそれなりに仕事はあるのですが医療職としての仕事としてはミスマッチがしばしばで、はるばる忙しい中をやりくりして行った割には不完全燃焼で終わるかなあ。

今週にも支援のあり方が見直されて、方針化されるらしいのでそれを見守ることにします。

2011年5月9日月曜日

久々の休日


今日は今年度初めての年休でした。

昨日は京都まで出かけた疲れもあって、普段より2時間ほど遅く起きました。

妻と娘は仕事で不在でしたが、ワンコが待っているので少し遅めの散歩。この時間になるとさすがに暑い。

朝から車を洗ったり、家の周囲の道路際の雑草を取ったりしてのんびりとした時間を過ごしました。久々に「休んだ!」って感じです・・。

また、明日からがんばれるかな。

今日、宮城への医療支援の第7陣が出発しました。月末の第8陣で私の病院からの医師支援は一旦休止にしますが、他職種での支援は引き続いて行う予定です。復興への道のりは長いですね。


2011年5月8日日曜日

カキツバタの花




今朝は早くから京都の上賀茂にあるキリスト教会での礼拝に妻と二人で出かけました。

牧師夫妻がアメリカから帰ってきておられると聞いていたので、お会いできるのを楽しみにしていたのですよ。

で、とても充実したひとときを皆さんと供に過ごすことができましたよ。

洗礼を受けている妻は別として私が普段つきあいのある方々とはかなり違う立場の方々なのですが、お話していて共感することも多くとてもよい刺激になりました。

往復400km程でしたが、はるばる出かけた甲斐がありました。


教会の近くに太田神社というのがあって、こちらはお参りはしなかったのですがカキツバタの群生地があったので見てきました。

まだ満開というわけではないですが、とてもきれいでしたよ。

2011年4月28日木曜日

こいのぼり


今年もご近所のお家でこいのぼりをあげてくれました。

わが家にはこいのぼりを喜ぶような年ごろの子どもはいないけれど、大人が見ても何かしら楽しい思いにさせてくれますね。

2011年4月26日火曜日

宮城への医療支援・第6陣報告会



先週の宮城への医療支援・第6陣報告会が昼休みに開かれました。

震災後約1ヶ月半近くなっていて、坂総合病院は平常の診療に戻り支援者はもっぱら避難所担当だったそうです。

多賀城市体育館の避難所では430人くらいの方が残っていて、家族単位で間仕切りをしたスペースで暮らしています。

何もないよりは良いかもしれないけれどプライバシーのない生活は長期になると厳しいね。

私たちは医療支援ということで支援者を送っているけれど、現地でのニーズは生活支援に重点が移ってきています。

本来は自治体の責任分野でしょうが、ここの避難所の管理は他県の自治体職員が行っていたそうです。肝心の行政機構そのものが機能不全をおこしているようです。

被災地域復興に向けて、息の長い現地のニーズに合わせた支援のありかたが問われています。

2011年4月24日日曜日

田植え


ワンコとのいつもの散歩道。

いつの間にか田植えの季節。

心和む風景だが、「宮城」も米所だったっけなあ。

がれきで埋まった田んぼは、当分田植えは無理だろうなあ。

2011年4月20日水曜日

宮城への医療支援・第5陣報告会


昨日の昼休みに医療支援の第5陣の報告会がありました。

私はあいにくと手術に入っていたので出席はできませんでしたが、前日に支援した医師から話は聞いていました。

坂総合病院そのものは本来の診療業務体制に戻ったそうで、支援者はほとんどが避難所まわりとのことです。

避難所の人数も減ってはきているそうですが、嘔吐下痢が流行したりしてやはり大変そうです。

地域の開業医さんもぼつぼつと診療を開始しているらしく、競合しないように気を配りながらの支援となっているそうです。

基本的には現地が立ち上がるまでのお手伝いなので、それでよいのだと思います。

私の勤める病院には支援に行きたいという医師がたくさんいて、今週は女医さんが第6陣で支援に行っています。

その後も二人いて5月末まで支援の医師が決まっていますが、その後は様子見ですかね。

2011年4月12日火曜日

宮城への医療支援・第4陣報告会


昼休みに先週、宮城へ支援に行っていた第4陣の報告会が開かれた。

4週目に入って活動の場が避難所に移りつつあったが、さなかにあの震度6の余震があったため再び救急体制を厚くした。その際トリアージ体制も救急担当の振り分けも短時間でさっと確立して「さすが」と思ったとのこと。その上、停電したり水道が出なくなったりしてやはり大変だったそうだ。

今回は2年目の研修医も同行していて避難所の活動で「足湯」をして、とても喜んでもらったことで「支援に行ってよかった」との感想であった。

少しでもお役に立てたらうれしいですよね。

今週は第5陣が支援に入ってますが、地震が頻繁に起こっているのでそちらも心配です。

2011年4月10日日曜日

宮城への医療支援・第4陣帰着


今夜は当直。担当時間前から病棟で呼ばれ、その後も救急外来と病棟で大忙し。

休憩を取る間もなく、夕食が21時過ぎになってしまいました。

食べ終わった頃に宮城への医療支援に行っていた第4陣の面々が無事帰着!

先頃の地震ではかなりの揺れだったそうで、おまけにまた停電となり大変だったとのことです。

明日は第5陣が出発します。

2011年4月5日火曜日

宮城への医療支援・第3陣の報告会



昼休みに宮城への医療支援の第3陣の報告会が開かれた。

丁度、新入職員のオリエンテーションも開かれていた時期だったので一緒に聞いてもらった。

支援したのが先週だったので病院での救急医療は峠を越えていて、毎日避難所での診療が仕事だったそうな。

避難所の生活も長くなると疲労がたまり、いろいろとストレスも重なって身体の不調を訴える方も多かったという。

早く生活自体が再建されないと被災した人たちもそろそろ限界ですよね。



病院前からは、大勢の仲間に見送られて先ほど医療支援の第4陣が出発しました。

来週以降もほぼ毎週送りだす予定で、第8陣までの支援医師が決定しています。

支援に行く者も、その留守を守る者もともに支援者です。

これからも自分たちができる支援をしっかり続けていこうと思います。

2011年4月4日月曜日

低いレベルの汚染水 海に放出!

これは大変なことだが、 {仕方がない}≒{他に方法がない}ということですよね。

でも、ほんとに大変なことだ。



低レベルの汚染水 海に放出へ

4月4日 16時58分 NHKニュース
東京電力は、福島第一原子力発電所の事故で、敷地内にたまっている高濃度の放射性物質に汚染された水の貯蔵先を確保するため、低いレベルの放射性物質に汚染された水、あわせて1万1500トンを、準備ができしだい、海に放出することを明らかにしました。東京電力によりますと、放出される水に含まれる放射性物質の濃度は、法律で定める限度のおよそ100倍に当たるとしていますが、付近の魚などを毎日食べ続けた場合、1年間に受ける放射線量は0.6ミリシーベルトで、一般の人が1年間に浴びても差し支えないとされる1ミリシーベルトを下回るとしています。
福島第一原発では、2号機のタービン建屋にたまった水から、運転中の原子炉の水のおよそ10万倍という高い濃度の放射性物質が検出されているほか、タービン建屋の外にある「トレンチ」と呼ばれるトンネルにたまった水からも高い濃度の放射性物質が検出されていて、その汚染された大量の水の処理が課題となっています。このため東京電力は、これらの高濃度の放射性物質に汚染された水の貯蔵先を確保するため、敷地内に保管された低いレベルの汚染水を、準備ができしだい、海に放出することを明らかにしました。放出されるのは、液体廃棄物を処理する「集中廃棄物処理施設」にたまっているおよそ1万トンと、5号機と6号機の地下水を集める「サブドレンピット」と呼ばれる施設に保管されている1500トンです。東京電力によりますと、今回の放出は、原子炉等規制法64条に規定された「危険時の措置」に基づくもので、災害が発生するおそれがあるため、応急の措置として行うということです。放出による放射性のヨウ素131の濃度は、法律で定める排出基準の限度のおよそ100倍に当たるとしていますが、付近の魚や海草などを毎日食べ続けた場合、1年間に受ける放射線量は0.6ミリシーベルトで、一般の人が1年間に浴びても差し支えないとされる1ミリシーベルトを下回るとしています。東京電力福島事務所は4日午後4時すぎから会見し、低レベルの放射性物質に汚染された水を準備が整いしだい、海に放出することを地元の記者らに説明しました。東京電力の技術・広報担当の白井功さんは「さらに影響が拡大するおそれがあり、応急措置を講ずることにした。地元の方々にはご迷惑をおかけしていますが、さらに一段のご苦労をおかけすることに非常に申し訳なく思っています」と、ことばを詰まらせながら謝罪しました

2011年4月3日日曜日

お花見


朝、ワンコの散歩のついでに親子三人で近くの公園までお花見に行ってきました。

まだ少し寒くて7分咲きかな。

2011年3月29日火曜日

宮城への医療支援・第2陣の報告会





本日午後、宮城への医療支援の第2陣の報告会が開かれました。

参加職員は一回目の半数くらいだったけれど、県会議員さんも来られて熱心にメモを取っておられましたよ。

歯科の先生も行っていたこともあり、新たな視点で今後の支援のあり方が見直されて行くと思います。

今、職員には4−5月の宮城への支援者をエントリー制で募集をしています。

医局からは続々と希望者が増えていて、二人の女医さんも含めて第4陣以降で6名もいます。

実のところこちらも日常診療だけでも大変な日々を送っているのですが、被災地でがんばっている仲間や被災者さん達のことを思う気持ちがうれしいですね。




2011年3月25日金曜日

宮城への医療支援継続中


昨夜、医療支援の第2陣が無事帰ってきました。

昼休みに簡単に報告を聞いたら、避難所に多くの人は残っているものの食事は何とか3度とれているそうです。水も暖房も入っていて最低限の条件は整ったらしいです。

ただ、インフルエンザや嘔吐下痢などの感染症が広がっているそうです。また、今回は歯科医師も入ったのですが口腔衛生が最悪の状態でお年寄りの肺炎の原因の一つにもなっているのではないかとのことでした。

長期になればなるほどストレスもたまるでしょうし、県の方でも精神科の支援なども検討されているようで知人が近々派遣されるとの情報も入ってきました。

私の病院も本日第3陣を送りだしたところです。

引き続きさまざまな支援が必要ですね。

2011年3月20日日曜日

昨夜、宮城県塩釜の医療支援から帰ってきました




15日早朝に出発して福島原発事故の動向を見極めながら高速道路をひた走り、17時間かけて宮城県塩釜市の坂総合病院に到着しました。

仙台東ICを降りると明かりがほとんどなく壊れた家屋と車が道の両側に放置され、地震と津波被害のあまりのひどさに息を飲みました。ニュースでは断片的に観ていたものの街灯や信号機の点いていない廃虚とも言える街の惨状は想像を超えたものでした。

坂総合病院は比較的高台にあり、耐震構造の新築病院だったのが幸いしてほとんど無傷でした。震災後から殺到する患者さんの対応に、被災者でもある職員と支援者達が24時間態勢でがんばっていましたよ。

私たちはとりあえず宿泊場所に案内され持参した寝袋で仮眠をとりました。
翌朝から医師、看護師、事務にそれぞれの仕事が割り振られ支援活動開始です。

私は病院内で日中、夜間ともに救急外来を担当して次々と運ばれてくる患者さんを診ていました。発生後5日も経過するとやって来る患者さん達の多くは通常見かける疾患が主になっていました。
ただ劣悪な環境の避難所や何とか住める程度に残った家屋に住んでいるため暖房がなく、水や食料も十分に行き渡っていないようで治療が終わってもまたそこへ帰っていかなくてはならないことに対する不安を隠せない様子でした。

医療支援はもちろん大切ですが、この被災地の方々のもとに一刻も早く暖かい住まいと食料が与えられるようになることを願わずにはいられませんでした。そのためにも国や自治体がもっと迅速に強力に動いて欲しいと思います。

実働は三日間でしたが、毎日の様に全国各地の病医院から続々と支援に訪れる仲間達を頼もしく感じながら昨日は14時間かけて夜遅く帰ってきました。

今は無事に帰り着いたことにほっとしていますが、心中は複雑で整理がつきかねています。
私たちが彼らのためにしてあげられることは他に何があるだろうか・・と。

今朝、医療支援の第2陣が現地に向けて出発しました。とりあえずは今できることを続けていくつもりです。


2011年3月14日月曜日

明日は宮城の塩釜まで医療支援に行きます

日が経つに連れて地震と津波で受けた被害の大きさに驚く日々。

同じ系列の被災地の病院からの支援要請に応えて私たちも医療支援に向かうことになった。

第一陣は医師と看護師各1名、事務2名の少人数編成だが、中小病院の私たちとしてはこれが限度。私は立場上、一番乗りです。

福島の原発事故や頻発する余震など不安な要素はいっぱいあるけれど、現地でがんばっている仲間のことを思うとやはり行かなければと思います。

とりあえず5日間ですが、支援もしながら後に続く人たちのためにも情報を集めて来たいですね。

無事に帰ってこれますように・・。

2011年2月15日火曜日

バレンタインデーは大雪


昼前から雪が降り出して、いつの間にやら一面の銀世界。

当直明けなのに仕事がなかなか終わらず、病院を出たのが午後3時半。

すでに道路は車でいっぱい。家までの道のりが遠かったよ。

でも、気温がそれほど低くなかったのかアイスバーンにはならなかったので1時間くらいで
帰宅。家のまわりは雪で道路が見えないくらい。

急に「どか雪」は困ります。

で、今日はバレンタインデー。

いつもの様にありがたい義理チョコがチョコ、チョコと机の上に増えていきます。

いろいろと大変なのに私にまで気を使っていただいてありがとうございます。

当分、家の中に飾っておきますね。

それにしても夜の10時過ぎに緊急で呼び出されて再度出勤。帰宅は午前1時・・。

まいったよ。




2011年2月6日日曜日

INVICTUS (DVD):負けざる者たち


今夜、やっと借りていたDVDを観た。

借りたときは面白そうと思って借りたはずなのだが、帰宅が遅いと観るのが億劫になってね。

一週間以上も置いたままだった。

でも、見始めるとつい引き込まれて一気に観てしまったし、感動で目がうるうるしてきた。

物語はかつて人種隔離政策としての「アパルトヘイト」で有名な南アフリカでの出来事。

30年近く政治犯として投獄されていたネルソン・マンデラが黒人初の大統領になったばかりのとき、白人が富のほとんどを独占していた国で彼が何をなそうとしたのか。

課題が山のようにある中で日々それらを精力的にこなしながら、約一年後の’95年に開催された南アフリカでのラグビーのワールドカップ。そこでの優勝という目標に向かって努力をする中で白人と黒人の「共生」の道を探るという困難な戦いに挑む。

奇跡的にもワールドカップで優勝することで、それまで反目しあっていた両者が「同じ南アフリカの国民」として喜びを分かち合うことができた。このあたりの描写が特に感動的!

対立する国民を一つにまとめあげていくために、長年にわたり過酷に虐げてきた白人をあえて「赦す」選択をし政治的にも勝利する。このあたりの寛容さというかしたたかさというか、マンデラ大統領の政治家として人としての懐の深さを感じさせてくれる。

なかなかに観応えのある、勇気を与えてくれる物語でした。ちなみに監督はクリント・イーストウッドだよ。

ついでだが、日本の首相ももっと見習ってよと思うよ。




2011年1月31日月曜日

氷点下の世界


今朝の気温は−3℃だったそうな。

ワンコと散歩に出たら夜の間に降った雪がうっすらと積もって残っていた。

さすがに寒いなあ。

最近は相変わらず忙しいけど、人との関係が落ち着いてきているのでずいぶん気が楽。

妻と同様に夜もよく眠れるようになったし、身体の調子もまずまず。

この分だと、あと2-3年は現役でやれるかな・・。