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2015年4月19日日曜日

震災3日後の東電テレビ会議-YouTube-情報統制

このあと、職場の仲間と3月15日に東北自動車道を通って宮城に支援に行った。
 東京に着いたとき福島の爆発があって放射能が危ないとの情報はあってヨウ素剤を飲んでいたけれど、夕方には宮城に向けて出発した。帰りの20日には相馬市にも入った。情報が速やかに伝えられていても行ったと思うけど、車の外には出なかったよ。
 これ聞いていると東電も官邸も情報操作に一所懸命で、住民のことをちっとも考えていなかったことに今更ながら憤りを感じる。
当時も4年後の今も似たような状況だし、東電も政府も反省なさ過ぎ、努力しなさ過ぎ・・。
 それでも選挙では自民党に票が入る不思議さ。


震災3日後の東電テレビ会議公開

2014年10月6日月曜日

知らなかった「福島・被爆国道6号線開通」

放射能汚染が確実に起こっている道路を通行可能にして、被爆者を増やすってどういうこと。車の窓を閉めて走っても、車って密閉されてる訳じゃないからほとんど意味ないでしょ。タイヤやボディーについた汚染物質や土はそのままお持ち帰りですか。
これ以上、汚染を日本中に広げてどうするの!




放射能汚染が拡散?“被爆国道6号線”開通で1万台以上が通行中!【前編】


週プレニュース 2014年10月6日 06時00分 (2014年10月6日 10時01分 更新)
福島第一原発から2.5kmの道路が通行可という狂気! 「アンダーコントロール」という安倍首相のウソがここでも明らかに?

東京から仙台までの太平洋沿岸を縦断する「国道6号線」。この約350㎞の一般道は「福島第一原発事故」直後から“半径20㎞圏内”にあたる約40㎞区間が通行止めにされた。その後、規制は段階的に解かれ一部区間のみ通行止めとなっていたが、そこが9月15日0時に解除、3年半ぶりに全線が開通した。

このニュース、世間的にはそんなに大騒ぎになっていないが、実は重大な問題を孕(はら)んでいる。というのも、この最後まで通行止めとなっていた双葉町~大熊町~富岡町の約14㎞区間は、福島第一原発のすぐ西側を通っているからだ。そんな高濃度放射性物質が降り注いだ「帰還困難区域」「避難指示区域」を走る道路を、一般車両がフリーパスで行き交うことに何も問題はないのか?

実際、この14㎞区間を通れるのは“窓を閉めた自動車”だけで、バイク、自転車、徒歩による移動は許可されていない。つまり、この地域の放射能汚染が今でも人体に有害なことは行政も認識はしているのだ。

では、なぜ全面開通に踏み切ったのか? そもそも、この9月15日の全面通行解除は、いつから予定されていたのか? 報道では「政府の指示」とされているが、どこの行政機関が実務を担当したのか? いくつもの省庁に問い合わせたところ、最終的にたどり着いたのは、内閣府「原子力災害対策本部被災者生活支援センター」だった。その担当職員の説明によると、

「特に前々から9月15日を予定していたわけではありません。ただ、通行の方針は昨年暮れから今年の頭にかけて検討が始まりました。その大きなきっかけは、地域住民や自治体の方々からの強い要望でした。被災地の復興を促進するために、一日も早く国道6号線を以前のように生活道路として使いたいという意見が数多く寄せられたのです」

確かに大震災と原発事故の発生以来、6号線の分断によって福島「浜通り」地域の住民は多大な苦労を強いられてきた。例えば、北側の南相馬市から南側のいわき市までクルマで行く際、以前は1時間ほどだったのが、「中通り」を迂回することで倍以上の時間がかかっていた。

しかし、6号線の再開通で何より重視されるべきは、放射能汚染の影響だ。これについては、どんな対策が講じられたのか。

「年初から路線内の放射線量の細かい調査と分析に取りかかり、これらの専門的な作業は、原子力規制庁に依頼しました」(前出・原子力災害対策本部職員)

では、「原子力規制庁」はどんな調査を行なったのか?

「まず14㎞圏内のモニタリングポストや文科省が行なってきた航空測定データなどの分析、さらに新規の路面測定を春頃まで繰り返して、除染が必要な場所を調べました」(同庁担当者)

この調査結果をもとに、通行制限解除に向けた除染を実施したのは「環境省」だった。
「作業期間は4月から8月にかけての約4ヵ月間。具体的には路側帯などに茂った雑草の刈り取り、側溝にたまった汚染土砂や落ち葉の除去、道路脇に迫ったコンクリート擁壁の高圧水洗浄などです。また放射線量が高めのアスファルト路面については、ショットブラストという装置を使って処理を施しました」

この装置は、小さな鉛の粒を高速で路面にぶつけて汚染部分を削り取るものだ。ただし、これらの除染作業は福島県内の多くの場所でも行なわれており、6号線だけが特殊な方法で処理されたわけではない。

そして除染終盤の8月に、再び「原子力規制庁」の測定班が、14㎞区間で実際に車両走行実験を行ない、クルマの放射能汚染が健康に影響を及ぼさないレベルと判定。その結果を受けて内閣府「原子力災害対策本部」が9月15日の通行制限解除を決めたという。また解除3日前には、その根拠となった6号線の線量調査内容を詳しくまとめた11ページの資料も公開された。

こうした各省庁の連携で実現した6号線開通。2日後の9月17日には、安倍首相が大熊町の原発事故汚染物の「中間貯蔵施設」候補地と川内村の保育園 を訪れ、砂場で遊ぶ児童たちを笑顔で見つめるシーンが報道された。このタイミングのよさは、15日の6号線開通との“すり合わせ”を感じさせる。

原発事故 処理は着実に進んでいると印象づけるパフォーマンスか? それはともかく、気になるのは6号線の放射能汚染が本当に大丈夫かということだが……。

(取材・文/有賀 訓)

2014年5月22日木曜日

大飯原発運転差止背旧判決要旨が素晴らしい

大飯原発訴訟判決では「生存を基礎とする人格権が公法、私法を問わず全ての法的分野において、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である」として裁判所自身の判断を示している。
その中でも、「9、被告のその余の主張について」の論旨が明快で実に理性的で素晴らしいです。
最高裁判事もこれくらいの良識を持つ法曹人たちだとうれしいのですが・・。


【速報】大飯原発運転差止請求事件判決要旨全文を掲載します

9 被告のその余の主張について
 他方、被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。
 また、被告は、原子力発電所の稼動がCO2排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが、原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。

2013年3月11日月曜日

Remember 3.11

ちょうど2年前のこの日に東日本大震災が起こった。

4日目に宮城県に医療支援に向かったが、ほんとに大変な惨事だった。

あれからいろんなことがあって、次第にみんなの意識からは遠のいていってるように思える。

でも現地の人々にとっては毎日がその延長線上にあって、今も目の前にある現実だ。

政治がガタガタなのと原発問題が尾を引いて、復興は遅々として進まない。

被災した人たちは二重に救われない想いだろう。

「強い日本」を唱えるも勝手だが、政治家はもっと足下をみてほしい。




2012年3月27日火曜日

内部被爆


福島の原発事故を受けて農産物や魚介類の汚染が広がっている。特集番組などで年間の食事からの摂取した被爆線量がいくらだったら心配ないとか言われているけれど、外部被爆と内部被爆を混同した発言だと思う。チェルノブイリでの放射能汚染でも内部被爆で多くの子供が甲状腺がんを始めとする癌に罹患した。私たちは放射能汚染とその被害について正確な知識を知っておく必要があると思う。それにはまず過去の教訓に学ぶべきで、被爆国の日本にだって生かすべき体験を十二分に持っているはず・・。




内部被曝で重大な疾患の恐れ

2012年3月26日 19時00分
 
『内部被曝』
 福島第一原発事故から一年が経ちましたが、壊れた原子炉建屋からは今もなお放射性物質が漏れ続けています。この事故によってこの先何十年も放射能と付き合わなければならなくなってしまった日で、これからどのようなことが起こるのでしょうか。
 医師として広島の原爆を経験した肥田舜太郎さんは、著書「内部被爆」
(扶桑社/刊)の中で、長期間にわたり低線量の放射能に被曝し続けることによる健康被害の危険性を指摘しています。

■「原爆ぶらぶら病」が東日本で発生する
 肥田氏は、今後日本で原爆を投下された広島・長崎と同じことが起こりうるとしています。
 その一例が、有名な「原爆ぶらぶら病」です。広島・長崎に原爆が投下されてしばらく経ったあと、被爆者の中で「ある日突然たいへんなだるさを感じて会社へ行けなくなった」「3日も4日もだるさが続き、良くなったと思ったら翌月また同じことが起こるため働き続けることができない」といった症状を訴える患者が急増しました。そのだるさは強烈なもので、ある患者は肥田さんの診察中に座っていられず頬杖をつき、椅子から床に降りてあぐらをかき、最終的には横になってしまったそうです。
 この病気は低線量被曝が原因となった晩発性障害(被曝後、時間がたってからあらわれる障害)として知られています。すでに指摘されているがんや白血病だけでなくこの病気も、今後患者数の増加が懸念されているのです。

■低線量被曝による患者は社会に抹殺される?
 低線量被曝による晩発性障害において最も大きな問題は、診察できる医師がいない点だといえます。つまり、仮に福島第一原発事故による被曝で健康を損ねたという患者が病院にやってきたとしても、それが確かに原発事故の影響によるものだということを証明する学問がまだないのです。
 この点についても肥田さんは、かつて「原発ぶらぶら病」の患者が病気だと認定されず、満足な補償を受けられなかったのと同じことが、今後の日本で起きるのではないかと懸念しています。

■被曝から逃れるには?
 では、年を経てから健康に重大な影響を及ぼす恐れのある低線量被曝から身を守る方法はあるのでしょうか。
 肥田さんは「今も放射能が出ているので完全に逃れるは非常に難しい」といいます。原発から遠くに避難できたとしても、今の日本で汚染されていない食べ物だけを食べ続けることは困難であり、外部被曝は避けられても、内部被曝してしまう可能性が高いのです。
被曝に対抗するには生まれ持った免疫力に頼るしかありません。
 肥田さんは、ほとんどの人は汚染された日本で生きるしかない以上、もう自分には放射性物質が入ってしまっていると割り切った方がいいとして、免疫力を高めることによって被曝による健康被害から逃れるという生き方を提案しています。
 本書は、放射能についての基礎知識はもちろん、原発事故後の日本社会の変化や、想定しうる放射能被害と対策について、医師として放射能と向き合い続けてきた肥田さんならではの視点で語られています。
 日本で暮らす以上、もう放射能からは逃れられないのかもしれません。だとしたら、このまま日本で暮らすのかどうかということも含めて、放射能とどう付き合っていくかということが、私たちに問われているのです。
(新刊JP編集部)

2012年3月5日月曜日

ひどい話 原子力安全・保安院の情報隠し

経済産業省原子力安全・保安院が原発事故の1週間後には「炉心はすでに溶融している」との分析結果を得ていたとのニュース。

「内部で情報を共有するためのものだった」ので国民には知らせなかっただって。

私は3月15日に東北自動車道を通って仲間と一緒に宮城まで医療支援に行ったよ。3号機の建屋が爆発した時だったけどね。19日には同じ道を南下して帰ってきましたよ。
ある程度の危険を承知でその後も次々と全国から支援者が詰めかけたのだけれどね。
この間、政府も東電も御用学者も「炉心溶融はない」と言い切っていましたっけ。
君らは「大本営」か。

信用に値しない政府をもつ国民は不幸だ。





CHUNICHI Web
2012年3月5日 19時46分


 経済産業省原子力安全・保安院は5日、東京電力福島第1原発の事故が発生してから1週間後、保安院などの分析チームが1~3号機で「炉心はすでに溶融している」という分析結果をまとめていたと発表した。この報告書は当時公表しておらず、「保安院内で情報を共有するためのものだった」と説明している。
 保安院によると、分析チームは昨年3月18日、1~3号機について「炉心はすでに溶融し、外部から注水を続ける限りは安定した状態が継続していると評価する」とまとめた。4号機の使用済み燃料プールが損傷した場合の影響なども検討し「現在注力すべきは、燃料プールの水位回復」と報告した。

(共同)


















2012年1月24日火曜日

福島原発からの放射性物質放出増加だって!

福島原発事故による放射能汚染があちこちで問題になってるのはよく見聞きする話で、困った事にあまり驚かなくなっていた。

事故直後に辺り一面に降り注いだ放射性物質がその後の雨などで集まって特定の場所に「ホットスポット」を作り出しているとは知っていた。東京湾の汚染も深刻だよね。

 でも、いまだにこんなに多くの「放射性物質が放出」され続けているとは知らなかった。
これって毎時0.7億ベクレルという事は毎日16.8億ベクレルだよ。
 それまでの毎時0.6億ベクレルを基準に考えると毎日14.4億ベクレルで、毎月だと432億ベクレル。一年で5184億ベクレルの放射性物質が環境に放出され続けるってことなんですね。
 いつになったら放出が止まるのかと考えたら、とんでもない話ですよ。これ!

 決して忘れてはいけない原発事故とその恐ろしさ。最近、格納容器が予想外に核分裂による放射線のために劣化が著しいとの報告もありました。

 点検停止した原発の再稼働は反対!

 ましてや原発の稼働年数を40年から60年に延長するなんて話も、それこそとんでもない非常識です。



福島原発で放射性物質の放出増加 内視鏡調査などが影響か


2012年1月23日 21時24分 KYODO NEWS

 東京電力は23日、福島第1原発1~3号機からの放射性物質の放出量が毎時0・7億ベクレルとなり、昨年12月の同0・6億ベクレルから増加したと発表した。2号機の内視鏡調査の準備や3号機周辺の解体作業で放射性物質が舞い上がったのが原因と東電はみている。東電によると、1号機の放出量は昨年12月の5分の1程度に下がったが、2、3号機でそれぞれ0・1億ベクレル増えた。

2011年10月12日水曜日

じわじわ広がる放射線物質


怖いですね。風に乗って飛んでいくからどこまで広がるのかわからない。

知らない間にいつの間にか放射線物質に汚染されている環境にいる事になる。

わかったところで、ここまで広がると個人的には対応のしようがないような・・。

こんな危険な「原子力発電所はもういらない」という事でしょうか。


<放射性物質>横浜でストロンチウム検出 80キロ圏外初



2011年10月12日 11時24分 (2011年10月12日 12時30分 更新)





 横浜市港北区のマンション屋上で、放射性物質のストロンチウムが検出されたことが、民間分析機関の調査で分かった。同市は調査結果を受けて再検査を始め、近く結果がまとまる見通し。東京電力福島第1原発の80キロ圏外でのストロンチウム検出は初めて。
 マンション屋上にたまった堆積(たいせき)物を住民が採取し、8月に「同位体研究所」(同市鶴見区)で測定したところ、ストロンチウム90(半減期約30年)を1キロ当たり195ベクレル検出。9月中旬、市に連絡があった。
 横浜市は福島第1原発から約250キロ。ストロンチウムはこれまで福島市など80キロ圏内では検出されていたが、文部科学省原子力災害対策支援本部は「横浜での検出は確認中だが、検出されれば80キロ圏外では初めて」と話している。
 市は当初、ストロンチウムの検査は予定していなかったが、研究所の調査結果を受け、区内3カ所で測定を進めている。
 ストロンチウム90は文科省の3月下旬〜5月上旬の土壌調査で、福島第1原発から29キロの福島県浪江町で250ベクレル、36キロの飯舘村で120ベクレル、62キロの福島市で7.7ベクレル検出されている。【山下俊輔、杉埜水脈】


 【ことば】ストロンチウム
 半減期が約50日のストロンチウム89と同約30年のストロンチウム90がある。カルシウムに似た性質があり、体内に入ると骨に取り込まれやすく、骨のがんや白血病の原因になる恐れがあるとされる。

2011年10月7日金曜日

ジョブズ氏死去


 
2011年10月6日 11時41分 (2011年10月6日 12時34分 更新)


スティーブ・ジョブズ会長の死去を伝える米アップル社のホームページ=2011年10月6日午前11時43分撮影

 【ワシントン平地修】「アップルは先見性がある独創的な天才を失い、世界は驚嘆すべき人物を失った」。5日夜、創業者のスティーブ・ジョブズ氏の死去を発表した米アップルは、ホームページにトレードマークの黒いタートルネック姿のジョブズ氏の写真を掲げ、「彼の精神は永遠にアップルの基礎となるだろう」と、IT業界のカリスマの死を悼んだ。  アップルは、ジョブズ氏の主導で開発され、同社の業績を大きく飛躍させたスマートフォン(多機能携帯電話)「iPhone(アイフォーン)」の新機種「4S」を4日に発表したばかり。発表の場にジョブズ氏が現れるのではないかとの期待も出ていただけに、突然の訃報は米国だけでなく、全世界を衝撃をもって駆け巡った。  ジョブズ氏は55年、大学院生だった未婚の母の下に生まれ、生後すぐに養子に出された。米リード大学を中退後、20歳の時に自宅のガレージでアップルを創業。コンピューター「マッキントッシュ」などを発売し、10年後にはシリコンバレーで従業員4000人、年商20億ドル(約1650億円)の新興企業に育て上げた。  30歳で共同経営者との路線対立からアップルを退社。その後、アニメーション会社ピクサー・アニメーション・スタジオを買収し、映画「トイ・ストーリー」などの製作を手がけた。97年にアップルの経営に復帰すると、米マイクロソフトとの提携や大規模なリストラなどで低迷していた業績を再建した。  すべての製品の経営判断にかかわり、98年には丸みを帯びたデザインと鮮やかなツートンカラーが話題を呼んだパソコン「iMac(アイマック)」を発売。01年発売の携帯音楽プレーヤー「iPod(アイポッド)」や07年発売のアイフォーンなど、斬新なデザインと新しい機能を兼ね備えたヒット商品を次々と発表し、経営手腕は「魔術師のよう」とも賛辞を浴びた。  ただ、自社商品へのこだわりの強さゆえに時に強引と評されることも。10年に発売した新型のアイフォーン4が、アンテナの設計上の欠陥から、米国で受信感度が落ちると指摘された際には、他社のスマートフォンでも同様の問題があり、アップル固有の問題ではないと強弁。会見で男性が「嫌なら買うな」と歌う動画を流す場面もあった。  ジョブズ氏は今年8月の退任後も、その病状やアップルの経営への関与度合いが大きな注目を集めてきた。同社の「顔」であることは変わらず、精神的支柱だっただけに、今後の経営にも少なからず影響を与えそうだ。
 ◇「ハングリーであり続けろ」

 「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ」。スティーブ・ジョブズ氏は05年の米スタンフォード大学卒業式で行われたスピーチの最後に「みんなにもそうあってほしい」とこう呼びかけて締めくくった。すでにがんと診断されて1年。米カリフォルニア州の情報技術(IT)先進地、シリコンバレーで次世代を担う若者たちに伝えたい最後のメッセージが、ハングリー精神だった。

 ジョブズ氏は演説の中で、がんと診断された後の死生観について「古きものは消し去られる」と心境を告白。「時間を無駄に過ごしてはいけない」「自分の心と直感に従う勇気が大切だ」と説いた。

 シリコンバレーで医療技術分野のコンサルタントをしている元スタンフォード大客員教授の金島秀人氏(58)は「ジョブズが訴えるハングリー精神は、決して金もうけや上昇志向ではなく、自分の感性を信じて挑戦する創造的な姿勢だ。それこそがシリコンバレー精神の本質だ」と語る。

 ジョブズ氏は1970年代半ばからサンフランシスコ近くの禅センターに通い、仏教を学んだ。講演ではよく禅の教えを引用し「他人の価値観に振り回されないよう、無駄をそぎ落とせ」と強調していた。ロサンゼルスの日米文化会館で芸術監督を務める小阪博一さんは約20年前、会議で立ち話をした際、ジョブズ氏が「(仏教を海外に紹介したドイツ人哲学者)ヘリゲルの本『弓と禅』を読んだ」と、いかに禅の影響を受けたか話していたのを思い出すという。

 ジョブズ氏は04年にがんと診断された後、3度にわたり休職と復帰を繰り返し闘病してきた。いつも入院先は明かさず、8月にCEO退任を役員に伝えた後はメディアを含む外部と連絡を絶っていた。【ロサンゼルス堀山明子

2011年7月18日月曜日

やったね「なでしこ」 女子ワールドカップ優勝!

先日から気になっていた女子サッカー決勝戦。

始めからはとても見る元気がないから、朝はやめに起きれたら見ようと思ってた。

5時過ぎに起きてみたらまさに延長戦の後半で1−2の劣勢から澤選手が同点のゴールを決める瞬間を見ることができました。すごいね!

PK戦も固くならずに見事に決めてくれました。

元気が出たなあ。



なでしこ世界一!PK戦制した

女子W杯決勝 日本―米国 (7月18日 フランクフルト)スポニチ

サッカーの女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会決勝は17日(日本時間18日)、フランクフルトで日本と米国が対戦し、日本が2-2からのPK戦を制して初優勝した。

 試合は立ち上がりから米国が圧倒。日本のパスミスを突くなどして、再三決定機をつくったが得点には至らず。

 日本は、なかなかリズムをつかめなかったが、20分すぎから徐々に落ち着きを取り戻し、30分には大野のスルーパスを左サイドで受けた安藤がシュートを放ったが、GKに阻まれ惜しくもゴールならず。米国も決定力を欠き、両チーム無得点のまま前半を終えた。

 後半も立ち上がりから米国が攻め込むが、日本も粘りのディフェンスを見せる。後半21分、日本は大野に代わって丸山、安藤に代わって永里を投入。

 米国は24分、自陣から前線へのパスを受けたモーガンが中央を突破し、左足でゴール右隅へ。ついに先制点を奪った。しかし、日本は36分、米国ゴール前のクリアボールを奪った宮間が中央から同点ゴール。その後も一進一退の攻防を展開したが、両チームとも無得点。90分で決着はつかなかった。

 米国は延長前半14分、モーガンのクロスをゴール手前で受けたワンバックが中央から頭で押し込み勝ち越しゴール。2-1とした。

 だが、日本は延長後半12分、左コーナーから沢が大会5得点目となるゴールを決め、再び追いついた。15分に岩清水が一発退場となる場面もあったが、日本はゴールを死守。2-2で延長後半を終了。決着はPK戦に持ち込まれた。

 PK戦ではGK海堀が好セーブを見せ、3-1で制した。

2011年6月6日月曜日

<東日本大震災>英ウェストミンスター寺院で追悼式

世界中の人々が心配して心を寄せてくれている震災後の日本。

いろいろな取り組みが報じられているけれど、これにはいたく感激してしまいました。



<東日本大震災>英ウェストミンスター寺院で追悼式

2011年6月6日 10時50分 (2011年6月6日 11時24分 更新):毎日JP


 【ロンドン笠原敏彦】ロンドンにある英王室ゆかりの教会ウェストミンスター寺院で5日夜、東日本大震災の追悼式が行われた。在英日本人を中心に王室関係者や各国外交官ら約1500人が出席し、震災の犠牲者らに祈りをささげた。

 礼拝を執り行った同寺院のジョン・ホール首席司祭は「犠牲者を追悼し、愛する人や家、生活の糧を失ったすべての人々のために祈りましょう」とあいさつ。林景一駐英大使が「むこの犠牲者」の碑に献花し、仏教とキリスト教の両方で祈りが行われた。また、被災地の状況説明や宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」が日本語で朗読されるなどした。

 同寺院の広報担当、ローラ・キンセイさんは「世界中の人々と同じように我々は大震災の悲劇に大きなショックを受けた。すべての犠牲者と被災者のために追悼式を行った」と説明した。同寺院は英国国教会の教会で、主要な王室行事が行われるほか、歴代の国王が埋葬されている。

 英王室からはエリザベス女王のいとこのグロスター公が出席した。

2011年5月17日火曜日

宮城への医療支援・第7陣報告会


先週、宮城へ医療支援に行った職員からの報告会が昼休みにありました。

第7陣ということで被災後、約2ヶ月が経過していてずいぶんと求められる支援の中身が変わってきているということでした。

避難所の食事は、朝はパンで昼がカップ麺、夜は仕出し弁当が出るという程度でいまだに大きな問題を抱えているようです。炊き出しや足浴などの方が喜ばれる状況だったというのが支援に行った医師の感想です。

行けばそれなりに仕事はあるのですが医療職としての仕事としてはミスマッチがしばしばで、はるばる忙しい中をやりくりして行った割には不完全燃焼で終わるかなあ。

今週にも支援のあり方が見直されて、方針化されるらしいのでそれを見守ることにします。

2011年4月26日火曜日

宮城への医療支援・第6陣報告会



先週の宮城への医療支援・第6陣報告会が昼休みに開かれました。

震災後約1ヶ月半近くなっていて、坂総合病院は平常の診療に戻り支援者はもっぱら避難所担当だったそうです。

多賀城市体育館の避難所では430人くらいの方が残っていて、家族単位で間仕切りをしたスペースで暮らしています。

何もないよりは良いかもしれないけれどプライバシーのない生活は長期になると厳しいね。

私たちは医療支援ということで支援者を送っているけれど、現地でのニーズは生活支援に重点が移ってきています。

本来は自治体の責任分野でしょうが、ここの避難所の管理は他県の自治体職員が行っていたそうです。肝心の行政機構そのものが機能不全をおこしているようです。

被災地域復興に向けて、息の長い現地のニーズに合わせた支援のありかたが問われています。

2011年4月20日水曜日

宮城への医療支援・第5陣報告会


昨日の昼休みに医療支援の第5陣の報告会がありました。

私はあいにくと手術に入っていたので出席はできませんでしたが、前日に支援した医師から話は聞いていました。

坂総合病院そのものは本来の診療業務体制に戻ったそうで、支援者はほとんどが避難所まわりとのことです。

避難所の人数も減ってはきているそうですが、嘔吐下痢が流行したりしてやはり大変そうです。

地域の開業医さんもぼつぼつと診療を開始しているらしく、競合しないように気を配りながらの支援となっているそうです。

基本的には現地が立ち上がるまでのお手伝いなので、それでよいのだと思います。

私の勤める病院には支援に行きたいという医師がたくさんいて、今週は女医さんが第6陣で支援に行っています。

その後も二人いて5月末まで支援の医師が決まっていますが、その後は様子見ですかね。

2011年4月12日火曜日

宮城への医療支援・第4陣報告会


昼休みに先週、宮城へ支援に行っていた第4陣の報告会が開かれた。

4週目に入って活動の場が避難所に移りつつあったが、さなかにあの震度6の余震があったため再び救急体制を厚くした。その際トリアージ体制も救急担当の振り分けも短時間でさっと確立して「さすが」と思ったとのこと。その上、停電したり水道が出なくなったりしてやはり大変だったそうだ。

今回は2年目の研修医も同行していて避難所の活動で「足湯」をして、とても喜んでもらったことで「支援に行ってよかった」との感想であった。

少しでもお役に立てたらうれしいですよね。

今週は第5陣が支援に入ってますが、地震が頻繁に起こっているのでそちらも心配です。

2011年4月10日日曜日

宮城への医療支援・第4陣帰着


今夜は当直。担当時間前から病棟で呼ばれ、その後も救急外来と病棟で大忙し。

休憩を取る間もなく、夕食が21時過ぎになってしまいました。

食べ終わった頃に宮城への医療支援に行っていた第4陣の面々が無事帰着!

先頃の地震ではかなりの揺れだったそうで、おまけにまた停電となり大変だったとのことです。

明日は第5陣が出発します。

2011年4月5日火曜日

宮城への医療支援・第3陣の報告会



昼休みに宮城への医療支援の第3陣の報告会が開かれた。

丁度、新入職員のオリエンテーションも開かれていた時期だったので一緒に聞いてもらった。

支援したのが先週だったので病院での救急医療は峠を越えていて、毎日避難所での診療が仕事だったそうな。

避難所の生活も長くなると疲労がたまり、いろいろとストレスも重なって身体の不調を訴える方も多かったという。

早く生活自体が再建されないと被災した人たちもそろそろ限界ですよね。



病院前からは、大勢の仲間に見送られて先ほど医療支援の第4陣が出発しました。

来週以降もほぼ毎週送りだす予定で、第8陣までの支援医師が決定しています。

支援に行く者も、その留守を守る者もともに支援者です。

これからも自分たちができる支援をしっかり続けていこうと思います。

2011年4月4日月曜日

低いレベルの汚染水 海に放出!

これは大変なことだが、 {仕方がない}≒{他に方法がない}ということですよね。

でも、ほんとに大変なことだ。



低レベルの汚染水 海に放出へ

4月4日 16時58分 NHKニュース
東京電力は、福島第一原子力発電所の事故で、敷地内にたまっている高濃度の放射性物質に汚染された水の貯蔵先を確保するため、低いレベルの放射性物質に汚染された水、あわせて1万1500トンを、準備ができしだい、海に放出することを明らかにしました。東京電力によりますと、放出される水に含まれる放射性物質の濃度は、法律で定める限度のおよそ100倍に当たるとしていますが、付近の魚などを毎日食べ続けた場合、1年間に受ける放射線量は0.6ミリシーベルトで、一般の人が1年間に浴びても差し支えないとされる1ミリシーベルトを下回るとしています。
福島第一原発では、2号機のタービン建屋にたまった水から、運転中の原子炉の水のおよそ10万倍という高い濃度の放射性物質が検出されているほか、タービン建屋の外にある「トレンチ」と呼ばれるトンネルにたまった水からも高い濃度の放射性物質が検出されていて、その汚染された大量の水の処理が課題となっています。このため東京電力は、これらの高濃度の放射性物質に汚染された水の貯蔵先を確保するため、敷地内に保管された低いレベルの汚染水を、準備ができしだい、海に放出することを明らかにしました。放出されるのは、液体廃棄物を処理する「集中廃棄物処理施設」にたまっているおよそ1万トンと、5号機と6号機の地下水を集める「サブドレンピット」と呼ばれる施設に保管されている1500トンです。東京電力によりますと、今回の放出は、原子炉等規制法64条に規定された「危険時の措置」に基づくもので、災害が発生するおそれがあるため、応急の措置として行うということです。放出による放射性のヨウ素131の濃度は、法律で定める排出基準の限度のおよそ100倍に当たるとしていますが、付近の魚や海草などを毎日食べ続けた場合、1年間に受ける放射線量は0.6ミリシーベルトで、一般の人が1年間に浴びても差し支えないとされる1ミリシーベルトを下回るとしています。東京電力福島事務所は4日午後4時すぎから会見し、低レベルの放射性物質に汚染された水を準備が整いしだい、海に放出することを地元の記者らに説明しました。東京電力の技術・広報担当の白井功さんは「さらに影響が拡大するおそれがあり、応急措置を講ずることにした。地元の方々にはご迷惑をおかけしていますが、さらに一段のご苦労をおかけすることに非常に申し訳なく思っています」と、ことばを詰まらせながら謝罪しました

2011年3月29日火曜日

宮城への医療支援・第2陣の報告会





本日午後、宮城への医療支援の第2陣の報告会が開かれました。

参加職員は一回目の半数くらいだったけれど、県会議員さんも来られて熱心にメモを取っておられましたよ。

歯科の先生も行っていたこともあり、新たな視点で今後の支援のあり方が見直されて行くと思います。

今、職員には4−5月の宮城への支援者をエントリー制で募集をしています。

医局からは続々と希望者が増えていて、二人の女医さんも含めて第4陣以降で6名もいます。

実のところこちらも日常診療だけでも大変な日々を送っているのですが、被災地でがんばっている仲間や被災者さん達のことを思う気持ちがうれしいですね。




2010年8月15日日曜日

65回目の終戦記念日

8月に原爆が二発落ちたあとはすぐさま終戦に。

原爆が落される前に降伏していればよかったのに。

もっといえば、沖縄戦なぞしないうちに降伏していればよかったのに・・。

私の父親は‘95年に74歳で亡くなったが、終戦の時は兵隊として満州にいてソ連軍の捕虜となった。

幸いにもシベリア送りにはならず、中央アジアのタシケントというところへ送られた。

とはいっても捕虜として重労働に駆り出されたのは言うまでもない。

結構過酷な扱いを受けたと時折話してくれた。

思い起こせば私に話してくれた従軍中のエピソードはいくつか覚えているのだが、不思議と戦闘のことは一切話してはくれなかった。

軍のトラックを無免許で運転(あたりまえか)して壊してしまったとか、タシケントに抑留中にロシア語を覚えて最後は通訳的な仕事もしていたとか、収容所内での武勇伝(?)などは懐かしげに話していた。

何でも砲兵隊にいたとかで直接的には敵兵を殺す場面には遭遇しなかったとも聞いた。でも子どもには言えなかっただけでそれなりのつらい体験はしてきたのかもしれない。

私が大人になったときには私自身が忙しくて彼の戦争体験を同じ年ごろの人間として聞くことはなかった。

今になって聞いておけばよかったと思ったり、もしも彼が残虐な行為を直接的にしていたなら
やっぱりそんなことは聞かないほうがよかったと思うのか・・。

しかし志願兵として数年間をあの日本軍で過ごした経験を当事者からもっと聞いておくべきだったと今になって改めて思う。

あの悲惨な戦争を風化させないためにもきちんと聞いて、次の世代へ語り継ぐべきだったよなあ。

天国の父さん、どう思います?