2010年4月20日火曜日

井上ひさしさんと米原万理さんの関係

先日から井上ひさしさんの「ボローニャ紀行」を読んでいます。

井上さんがイタリアの都市「ボローニャ」に惹かれて30年にわたり勉強を重ねた後にようやく2003年12月に当地を訪ね旅した時のエッセーです。

実は私も10年余り前に行ったことのある都市だけに興味深いものがあります。

冒頭でボローニャを訪れることになったいきさつが書いてあるのですが、いざイタリアのミラノ空港へ降りたっての描写が面白い。

ついた途端あっというまに空港の外で、それまで書きためていた大切な資料と二百万円と一万ドルの入ったお気に入りのイタリア製の鞄を盗まれてしまいます。

大いに落胆しつつボローニャの宿舎に着いて日本にいる奥さんに鞄を盗られてしまったと電話しますが、奥さんの反応がじつに面白いのですよ。

少し紹介しますが、イタリア暮らしの長かった奥さんはハハハと笑いだして「イタリアを甘く見たわね」「イタリアは職人の国よ。だから泥棒だって職人なんです」ですと。井上さんをせめないで「これからは気をつけてね」みたいなやり取りで終わっていて、私はこの奥さんの反応にびっくりしました。なんという太っ腹な達観した人なんだろうとね。へえーこんな人もいるんだと思いましたよ。

そしたら今日、この奥さんはあの米原万理さんの妹さんのユリさんであるという記事が目に飛び込んできました。

ここで納得!

あの米原万理さんの妹さんならあの反応は十分にありうる話と「ガッテン」がいきました。
同時に井上ひさしさんの「生き方」のバックグラウンドの一端を窺い知ることにもなりました。

そんなことを考えながら井上さんの本を読んでます。

お二人のご冥福を心よりお祈りいたします。





絶筆となった井上さんのエッセー
 劇作家・小説家の井上ひさしさんの絶筆は、義姉の作家・米原万里さん(2006年没)をしのぶエッセーだったことが14日、わかった。

 井上さんが理事長を務めた市川市文化振興財団の関係者が妻ユリさんに確認することができたという。文章は千葉県市川市内で開催中の「米原万里展」の会場に展示されている。

 米原さんはロシア語通訳の傍ら、「不実な美女か貞淑な醜女か」「魔女の1ダース」などの作品を残した。ユリさんは妹で、井上さんは義弟にあたり、そんな縁で、財団は昨年、企画展の準備を進めていた。

 昨年10月頃、ユリさんに「会場展示用のエッセー的なあいさつ文を井上さんに書いてほしい」と依頼したが、体調不良を理由に断られた。その後、学芸員が執筆し、今年2月13日頃、事実確認の意味もあり原稿をユリさんに送った。

 その折、たまたま病院から外泊で帰宅した井上さんが原稿を一読。「回復したら執筆を再開するので、リハビリになれば」とペンを握った。文字数は、原稿用紙なら3枚程度の約1040字。2月16日に独特の丸文字がファクスで送られてきた。

 冒頭は「2006年の5月は、米原万里の作品に親しんでいた読者には、哀(かな)しい初夏になりました」と始まり、追悼部分の後に型破りな米原さんの人柄を「痛快この上なし」「まるで曲芸名人の華麗な技」などと表現する。

 さらに、「『読むこと、それ自体が快楽である』という、ごくごく当たり前のことを教えてくれた」「ヘンにマジメな道徳家の揃(そろ)ったこの国に、いったいどうして米原万里のような」などと洒脱(しゃだつ)を展開。経歴、企画展あいさつと流れる。

 9日夜の井上さんの死後、財団関係者が「時期的に絶筆になるのでは」と気付いた。14日午前、神奈川県鎌倉市の遺族に連絡を取り、ユリさんが「『病後の腕ならしに』と語っていた。間違いなく最後の直筆原稿」と答えたという。

 財団関係者は「初め原稿には署名がなく、『名前はいらない』と固辞された。名文なのでと説得して、ようやく了解を得た」と話す。別の関係者は「井上さんは『遅筆堂』の異名を持つほど、原稿が遅い。それが、2、3日で書き上げるとは」と首をひねる。

 財団では早速、直筆原稿の書かれたファクスを捜したが、今のところ見つかっていない。

 企画展は5月9日まで、市川市真間の芳沢ガーデンギャラリーで。問い合わせは同館(047・374・7687)へ。

(2010年4月15日08時55分 読売新聞

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